「Chapter10 読書メモは、自分の言葉で書こう」を読む
英語版では「 Read for Understanding」
Chapter10 読書メモは、自分の言葉で書こう
読んだことを書いたメモが、あなただけのアイデアになる
文献メモは「元の本の意味をできるだけ忠実に」 あなたの言葉で書きとめる
じっくり考えて自分の言葉で書くと、それがアイデアになる
手書きでメモをとった方が、理解は深い
人間の「見たいものしか見ない」 バイアスは、いいアウトプットの妨げになる
自分の論に批判的な主張は、いい文章に不可欠
批判により、仮説を変更しなければならないことはいいこと
メモを上手に使えば反論データも好きになる
関連のあるメモ同士を見つける能力が大事
一次文献にあたらないと「賢者」にはなれない
メモを自分の言葉で書くと「自分の頭」を使うことができる
本の構造を読みとる力も、メモをとればとるほど身につく
言い換えられなければ、真に理解できていないということ
メモは唯一にして最強の学習方法
本当に覚えるためには 「苦労しなければならない」
もっともいい学習方法も「自分の言葉でメモをとること」
「記憶するためにメモをとる」のではなく、思考するためにメモをとる
メモをとることは、真の学習にもなる
読んだことを書いたメモが、あなただけのアイデアになる
文献メモについて
読書メモや書誌情報のこと
このメモをもとに永久保存版のメモを書くが、このメモ自体も文献専用のツェッテルカステンをつくってそのまま保存する
rashita.iconところで、なぜこれらを保存するのか、というのは示されているだろうか
読んだ内容を理解し、それをツェッテルカステンのなかでかたちになっている自分の思考の、さまざまな文脈に当てはめることができれば、他の人の発見や思考を自分自身の新たな発見や思考に変えることができる
rashita.iconここで実際に行われているのは何なのか
主張について
ツェッテルカステンのなかの一連のメモは主張になる
rashita.iconやはりテーゼが書かれるのだ
そうした主張は、自分の頭の中にある理論やアイデアによって形作られる
そうした理論やアイデアは、読んだ本の内容によってひらめくことがある
それら(rashita.iconどれら?)はツェッテルカステンが提示するつながりよって、常に変化し、内容を問われる
双方向だという
rashita.icon何がどう双方向なのか
ツェッテルカステンの中身が豊かになればなるほど、自分自身の思考も豊かになる
自分の知的成長と足並みを揃えて成長する、アイデア製造機
rashita.icon二つの文の順番が逆になっている。上の文はツェッテルカステンが豊かになれば、自分の思考も豊かになる。下の文は、自分の成長が先にある(実際は並列されている)。
rashita.icon統合すると、自分が知的成長をする→ツェッテルカステンが豊かになる→そのことがさらなる自分の知的成長を助ける、という形だろうか。かなり好意的に読んで、ということだけども
ツェッテルカステンを使えば、これまでつながりが見出されていなかったものに、つながりを見出すことができるようになる
rashita.iconたいへん素晴らしい。
ツェッテルカステンから最終原稿へのステップは素直
内容は十分に深い意味があり、考え抜かれ、多くの場合はすでにたくみなつながりをもつ流れに配置されている
あとはメモを順番に並べるだけ
rashita.iconこれは前章でアウトラインを作るのは別のスキルが必要という話とどう整合するのだろうか。彼にとって、アウトラインを作るということは「メモを順番に並べるだけ」を意味するのだろうか。
メモ自体は単独でも理解できるように書かれているが、文脈に組み込むと意味が豊かになるようにもなっている
rashita.icon「なっている」というのは、ツェッテルカステンを使えば自然とそうなるということなのか、そういう風に意識してカードを書くということなのか
よって、原稿執筆は、機械的な作業というよりも、ツェッテルカステンとの対話に近いもの
rashita.iconこの「対話」というのはルーマン自身が用いていた
rashita.iconところで、「あとはメモを順番に並べるだけ」と「ツェッテルカステンとの対話に近いもの」は、作業としてぜんぜん別な印象を受けるのだが、その辺はどうなっているのだろうか。
違う文脈で同じメモを使っても、他の作業のコピーにはならない
文献メモは「元の本の意味をできるだけ忠実に」 あなたの言葉で書きとめる
重要なのは、読んだものをコピーすることではなく、読んでいるテキストと意義のある対話をすること
rashita.icon素晴らしい指摘。
あるテキストからアイデアを抜粋するとき、それは他人の理論の一部であるアイデアであり、特定の主張を裏づけるもの
rashita.icon読書メモは、必ずしも「アイデアを抜粋する」ことだけが目的ではないと思うが、ここでは限定されて言及されている
だから自分のツェッテルカステンにある別の文脈に組み込む前に、自分自身の言葉に翻訳する必要がある
その「翻訳」は、素の著作の意味をできるだけ忠実に別の言葉で説明すること
他の文脈に合わせて自由に変えてよいわけではない
rashita.iconはたして、そのような「翻訳」は可能なのか。可能だとしてそれは正当なのか。
ただ言葉を書き写すだけでは、文言を変えなくても、文脈の外に引っ張り出されることで、ほとんどの場合意味が変わってくる
rashita.iconそれが「文脈」という機能だから当然。
rashita.iconどのようにすればそうした前提において、他人のアイデアを自分のアイデアに翻訳できるのだろうか。
rashita.iconごく素直に考えれば、翻訳しているのではなく、他人のアイデアを一つの触媒として自分なりのアイデアを新たに立ち上げているのではないか。自分の文脈に合わせた。
文献メモは、文献管理システムに格納される
メインのツェッテルカステンとは独立しているので、読んだもともとのテキストの文脈に近い内容になる
しかし、メインのツェッテルカステンに入っている思考の流れを意識して書かれる
ルーマンの説明
「私はいつも手元に紙を用意し、そこに読んだ本の何ページかのアイデアをメモする。裏面には書誌情報を書く。読み終わったら、メモをひととおり確認して、すでにツェッテルカステンに入っているメモとどう関連しうるかを考える。つまり、ツェッテルカステンとどう関連するかを常に念頭において読むということだ」
Luhman etal,1987
文献メモをどれくらい詳しく書くかは、テキストの内容と利用目的によってかわってくる
rashita.icon大切な指摘
簡潔にまとめる能力やそのテキストの複雑さによっても違う
文献メモはテキストを理解し、把握するためのツールでもあるので、本の内容が難しければ詳しいメモを書いたほうがいいし、やさしければキーワードをいくつか書き留めるだけで十分
じっくり考えて自分の言葉で書くと、それがアイデアになる
ルーマンはメモ術の極みに達していたので、ごく短いメモで、もとのテキストの意味を曲げないで価値あるカードを書けていた
そのように論述の核心をすばやく見だして説明できるようになるには、理論が幅広く絡み合っていることが重要になる
新しいテーマを探求するときはメモは長くなる
気にしなくても言い。理解は省略できない
ゆっくりじっくり精読する必要があるときもあれば、一冊の本を一文にまとめれば十分というときもある
重要なのは、そうしたメモがメインのツェッテルカステンを書くときに役立つのかどうか
一番役立つのは、「読んだテキストの枠組み、理論的背景、方法論的アプローチや観点について」じっくり考えること
そのためには、言及されていることと同じくらい、言及されていないことにも熟考しなければならない
ほとんどの人は、こうした文献メモの取りかたをせず、十分に体系的でないか、過度に体系的なメモになる
rashita.iconそれぞれ具体的にどういう状態だろうか。
ありがちなのは「間違った方向に体系化」されていること
内容を問わず、すべてのテキストを同じように扱ってしまう
rashita.icon体系化というのは、方法的統一性という意味合いだろうか
ありがちな失敗は、文献メモを取るときに、メインのツェッテルカステンに入れることを意識せず、漠然とメモを取ること
目的がなければ、メモをとることも、大きなプロジェクトのための重要なステップではなく、面倒な作業に感じてしまいます
rashita.icon重要な指摘。「ツェッテルカステンに入れることを意識」してメモを取らないと、ツェッテルカステンは育っていかない。どんなメモでもいいわけではない。
メインのツェッテルカステンに有用なメモを蓄積していくことを意識する。その意識のもとで読むこと、文献メモをとることを実践する
文献メモを取るのは、メインのツェッテルカステンに有益なメモを増やすため
だからこのメモは短くまとめておく(rashita.icon長く書くのは永久保存版のメモでよい、ということだろう)
また、文献メモから永久保存版のメモを手書きする場合、必ず1ヶ所に集め、「著者名 発行年」でアルファベット順や五十音順に並べましょう。そうすれば、文献管理システムに入っている書誌情報と簡単に照合できます。
rashita.iconこの意味がよくわからない。永久保存版のメモを、上記のような整列にするということだろうか。文脈に位置づけるのではなく?文脈への位置づけはリンクで行うということだろうか。この理解の違いで、ツェッテルカステンの運用はかなり変わってくると思う。
rashita.icon「文献管理システムに入っている書誌情報と簡単に照合できます」という言い方が為されているので、前段の説明は「文献管理システム」の並べかたではないだろう。ということは、メインのツェッテルカステンということになるのだが、それは紹介されているツェッテルカステンの運用法と整合しない気がする。何か読み落としていることがあるのだろうか。
While the purpose of taking literature notes is as clear as the procedure, you are free to use whatever technique helps the most with understanding what you are reading and getting to useful notes – even if you use ten different colours for underlining and a SQ8R reading technique. But all of this would be just an extra step before you do the only step that really counts, which is to take the permanent note that will add value to the actual slip-box. You need to take some form of literature note that captures your understanding of the text, so you have something in front of your eyes while you are making the slip-box note. But don’t turn it into a project in itself. Literature notes are short and meant to help with writing slip-box notes. Everything else either helps to get to this point or is a distraction.
上記に相当する段落がない。もしかして、僕が読んでいる版とは違う版なのだろうか(さすがに省略することはあっても、書き足すことはないだろうし)
いったんここの理解は保留にしておく
手書きでメモをとった方が、理解は深い
文献メモをZoteroで書誌情報と共に保存することもできるが、手書きの良さもある
手書きだと内容に注意が向くようになるから
コピペができないので、自分の言葉への翻訳が促される
人間の「見たいものしか見ない」 バイアスは、いいアウトプットの妨げになる
メモを取る際は、賢い選択力も同じくらい重要
rashita.icon何と比べて「同じくらい」なのかわからない
脳は情報の取捨選択があまり得意ではない
rashita.iconもしそうなら我々生物はここまで生き残ることはできなかっただろう。何かしらの役割において不足がある、というだけであって、「得意ではない」はさすがに言い過ぎ(というか言葉が足りない)のではないか。
確証バイアスがある
rashita.iconこれも生存に有利だったから残っていたと考えられる。そもそも、私たちの生物は特定の主張を理論的に検証する行為に、適応しているわけではない、
rashita.icon上記のような見方の問題は、人間以外の知的生物を「劣った存在」だと見がちで、それはそのまま人間のIQの散らばりにおいて一種の差別意識を生み出しかねない点。
自分の論に批判的な主張は、いい文章に不可欠
一流の科学者や思想家も確証バイアスからは逃れられないが、そうしたものがあると認識し、対策している点で違いが生じる
ダーウィン
自分の理論に得意に批判的な主張を書き留めることを自らに課していた
ツェッテルカステンには確証バイアスに抗する二つのポイントがある
書くプロセスが通常とは違うこと
動機づけのやり方を変えて、時節を裏付ける事実を探すのではなく、関連情報を、その主張を問わず無差別に収集できること
ツェッテルカステンを使わない従来の文章術では、仮説やテーマの決定からスタートする
確証バイアスが跋扈するのは目に見ている
rashita.icon目に見ているだろうか?
rashita.iconもっと言えば、ツェッテルカステンを使っていたら確証バイアスに抗することができると「確証」されているように振る舞うのは、致命的な過失を生みかねないのではないだろうか。
批判により、仮説を変更しなければならないことはいいこと
いい洞察を得られるもっとも重要なステップは、ボトムアップで発展させること
進行の途中で遭遇する最も洞察に満ちたアイデアにフォーカスし、変化に対応できなければならない
rashita.iconどれが「最も洞察に満ちたアイデア」というのはどのようにしてわかるのか?
おそらく直感でわかる、だろう。そして直感はバイアスが一番跋扈する舞台である
状況の変化で、プロジェクトがかえって前進したというくらいが理想的
rashita.iconタレブが、反脆弱性と呼ぶものが近しい
そのために、常に仮説で頭をいっぱいにするのではなく、次のことをする
各タスクを分離していることを確認し、読んだテキストの理解に専念する
自分の仮説の内容を正確に説明していることを確認する
上記を実行してはじめて「一歩引いて自分の中でどのような洞察が生まれたかを観察し、どんな結論になるかを判断」する。
rashita.icon具体的なイメージが湧きにくい説明
ツェッテルカステンを使うと、何を読み、どうメモするかをいやおうなく厳選するようになる
それをメモするかどうかの基準は、ツェッテルカステン内の議論に寄与するかどうか
重要なのは、つながりがあるか、つながりをつくれるか
rashita.iconこれだけだと、批判的な議論を取り込むことを保証してくれないように思うのだけども。別の外的な指針が要求される(たとえばダーウィンのような)気がする。
ツェッテルカステン内にある試行に対する補足や否定、アイデアへの疑問、主張の差別化などは、思考の発展に寄与できる
メモを上手に使えば反論データも好きになる
ツェッテルカステンの内容に集中するようになると、自説に反するデータが魅力的に思えてくる
なぜなら、そうしたデータがツェッテルカステンの中のつながりや議論を増やすから
自説に反するデータを探す作業は、実践を重ねるにつれ簡単になり、中毒性を帯びてくる
一方的なメモと、しっくりくる引用のコレクションよりも、賛否入り乱れる活発な議論から興味深いテキストを生み出すのはずっと楽です。
rashita.icon「賛否入り乱れる活発な議論」から生み出されるテキストというのは、賛否入り乱れる活発な議論があるテキストということなのか、それらを整理した上で整えられたテキストということなのか。
ツェッテルカステンは異論にきわめて寛容
結論を導き、主張展開する一直線の構成を練る作業はいちばん最後
関連のあるメモ同士を見つける能力が大事
メモをとるべき関連ある情報とそうでない情報を見分けるスキルは実践によってのみ身に付く
少しずつ習熟していく
パターンを見分ける能力
それらは一種の思考ツールのようになる
一次文献にあたらないと「賢者」にはなれない
意識的に実行しないとそうした判断は行われない
教科書や二字文献は、自分自身で選ぶ作業を私たちにさせないので、そうした文献だけに頼る人は見分けるスキルが習熟しない
カント『啓蒙とは何か』からの引用
自分の理性を使うことは、自然なことではなく、挑まなければならない課題
メモを自分の言葉で書くと「自分の頭」を使うことができる
ルーマンからの長い引用(ほぼこれだけ)
「自分の言葉で書く」(rashita.iconルーマンはこの作業の内実を明確に定義しているが著者はそうではない)作業をマスターすればするほど、きちんと役立つメモをすばやく書けるようになる
本の構造を読みとる力も、メモをとればとるほど身につく
要約することは、簡略化するのではなく、簡潔に言い表すこと
明解に説明すること(rashita.iconこれは簡潔に言い表すことと同義なのか、別の話題なのか)は、書くとき以外でも役立つ
パターンを認識し、論の枠組みを問い、他者が行う区別を見抜く能力は、批判的に考え、テキストや講演で他人の主張の裏を読むための前提条件
言い換えられなければ、真に理解できていないということ
リチャード・ファインマン「ある概念を理解できているかどうかは、入門講義ができるかどうかで決まる」
ペンを持ち読むことは、この講義のミニ版
永久保存版のメモの読み手の想定
テキストの背景となる思想や元の文脈も知らず、分野の一般的な知識しか持っていないオーディエンス
これは未来の自分でもある
自分は自分が理解していると勘違いしやすい。再読だと単純接触効果でそれがより高まる
rashita.icon再読はむしろ、自分の無知(あるいは忘れてしまっていること)を自覚させる効果が非常に高いように思うのだが。
rashita.iconさらに言えば、ツェッテルカステンで同じカードに何度も触れることはこの単純接触効果を発生させるのではないか。全体の説明がうまく整合していないように感じるが。
メモは唯一にして最強の学習方法
アイデアを書き留めるのは、無駄な遠回りのように思えるが、それを行うことで自分の理解が確かめられる
自分の理解不足を突きつけてくる外部システムを選択する
rashita.iconこの「外部システム」はどこまでの範囲を指しているのか。意識的な行動が必要だと述べているが、それを含めているのか、それとも著者はツェッテルカステンを使えば、誰でも自然にそうした「意識的な行動」が喚起されるという想定なのか
本当に覚えるためには 「苦労しなければならない」
学習には苦労が必要
理解するためには、古い知識を活発に思い出し、新しいアイデアを結びつけて手がかりにできるように脳を動かす必要がある
教師が学生のために情報をあらかじめ整理し、モジュール、カテゴリー、テーマするのは間違っている
情報を思い出す試みが大切
本の再読は、理解の役にも立たない
詰め込みは学習を助けない
テキストを再読することは、意味がない
単純な再読は理解にも学習にも意味がない
rashita.icon「単純ではない再読」には意味があると読み取れるわけで、最初の言い方はかなり大雑把というかキャッチーさを狙いすぎている
もっともいい学習方法も「自分の言葉でメモをとること」
学ぶために書くのは効果的
「記憶するためにメモをとる」のではなく、思考するためにメモをとる
事実と情報はツェッテルカステンにまかせて、それ以外のことに人間は集中する
rashita.iconこういう書き方をすると、あたかも何も事実や情報に関する知識を覚えていなくてもよいと捉えられてしまうが、実際は頭の中に知識がないと、「思考」という行為そのものが貧弱になる。
メモをとることは、真の学習にもなる
ツェッテルカステンは真の学習をするためのもの
rashita.iconだからこれは情報整理法ではなく、知識整理法でもなく、むしろ学習・研究法と理解した方がいい
脳とツェッテルカステンは役割分担
ツェッテルカステン
詳細情報や参考資料を扱い、不変の情報を保管してくれる
脳
主旨、深い理解、全体的なイメージに集中し、想像力を発揮させる
rashita.iconここまでのツェッテルカステンは「対話相手である」という説明とうまく整合しない気がする。「詳細情報や参考資料」を扱っているだけのものは、対話相手として十分ではないだろう。
まとめ記事